塾長ブログ

2018/07/02

ポーランド戦に塾長として一言

我々の年代は野球少年のエイジであり、特にサッカーに興味が深いわけではないが、

ワールドカップの予選通過がかかったポーランド戦の戦いについてコメントしておく

無論、男塾的観点から見ての価値観に基づいて述べる

世間では「是非」が分かれているというが、「西野監督は英断をした」「苦渋の選択であったろうが、勝たせコマを進めた西野監督は立派」という評価が優勢だ

決勝トーナメントに選手を誘ったという成果に基づく「結果論」から、「よかった」という価値観を支持しているようだが、

最低だ





ポーランドというのは、フランスを超えて欧州で一番の親日国であり、日本びいきの国民だ

知っているだろうか?

当然、「武士道」へのあこがれ、サムライ、忍者への尊敬の心を持ち合わせている

その親日の彼らの眼前で、最も「サムライ」らしからぬ、卑怯で、潔くなく、腰抜けの戦いをした

幻滅しただろう

いや、ポーランドの前だけではない、全世界が見ている前で演じた

選手は監督の絶対的命令であのような破廉恥なことをしたので、

卑怯とは思わないが、世界は決してそうは見てくれない

「日本は卑怯者だ、腰抜けだ、フェアではない」、という印象を与え

「批判を覚悟で采配をした」と西野は言うが、彼の価値観には「日本人」のルーツとしての「誇り」というのものがない

僕が提唱し教えようとしている「男の中の男」としてどうか?という価値尺度はない

日本人としての決して失ってはならない価値観を失ってしまっている

「死」よりも重い価値観のために、戦い続け、日本は、日本人は、歴史を作って来たのである


金を支払ってチケットを取得し、時間をかけ会場にまで来てくれ、そして入場するのに長蛇の列に並び猛暑の中待ち、観戦に来ていた観客はこぞって「面白くない試合だった」とコメントをしている

それはそうだろう、途中から負けているくせに、攻めることを放棄し、パス回しに終始する、前代未聞のやる気のないサッカーを見せられたのだから、面白いはずがないし後味が悪い

あの戦い方、あの判断には、観客の満足度なども何も考えていない

自我の塊であり、自分のことしか頭にない、観客への配慮は0だ

ここが僕が批判を加えるポイントの一番目である

サッカーで「プロ」なら、それは「商売」である

「商売」なら「顧客の満足の追求」なくして成り立たない

それは、死に物狂いのプロのファイトであり、真剣な男と男の戦いだ

それを無視し、観客不在のプレーをさせといて、監督はてんとして恥じない

選手はブーイングのなか、こんなことをやっている自分に恥じただろう、おそらく

僕にはあの試合は、モハメッド・アリと戦った猪木のように見えた

1ラウンド開始早々から終始、マットの上に寝そべり、アリがパンチを打つことができないようにした、その試合は、実に面白くなく、世界最低と呼ばれたファイトとなり、随分批判された異種格闘技戦であった

寝てたら勝てない、つまり勝つためでなく、負けないために試合をした

やっていることの発想はよく似ている


試合後に長友は、インチビューに応じたのだろうか、コメントをせず、いや、コメントできず、声をつまらせ泣いたが、あれが選手全体の本音であろう

殺生与奪権を持っている監督に対して、一兵卒が批判などできない

言いたいことがあっても口を閉じる

本田など「僕ならあのような判断はできない監督はスゴイ」と、持ち上げてはいたが、本音は違ったところにあるだろう


日本の文化は「恥」の文化であり、辱めを受けるくらいなら、「死」を選んできた民族である

「万歳突撃」も、捕虜となり辱めをうけるくらいなら、「潔く散ろう」という思想から来ている

なのに、日本の文化を根底から覆すあの戦い方は、世界最低であり、今の日本人の「価値観無き漂流」を端的に表している象徴的な出来事である

スポーツの世界まで、「穢れ」、そしてその「穢れ」に気が付くことなく、逆にその穢れた采配を評価する日本人は情けない

同じムジナというわけである


世間の評価は交錯し、そして西野監督に優勢だが、

男塾塾長の僕が正論を言う

西野はボンクラではないが、



阿保である